小さな町工場の印刷屋の3代目として、昭和29年9月に生まれた私は、幼い頃から、祖父や父の働く姿を見て大きくなりました。
まだ幼稚園に入る前、手差しの機械を、熟達した職人さんが、用紙を1枚1枚、見事な手さばきで印刷機械に差していくのを、上下する差し板の上に乗せて頂き、まるで遊園地の乗り物のように面白く遊びながら印刷の仕事を見ていました。
真っ白な紙が機械を通りすぎると、どんどん印刷されていくのに感動したり、膨大な数の活字が並ぶケースから、1文字1文字を驚くような早さでひらっていく職人さん(文撰工)に感心し、それを色々な込み物や罫を組み合わせて組んでいく職人さん(植字工)の姿に憧れたりして大きくなりました。
勿論、子供心に朝早くから夜遅くまで働いている父親に、「社長のくせになんであんな長い時間働かなあかんのや」と思ったこともありました。
中学卒業時に働きたいと思った時、もっと色々な経験をしてこい、と進学を進めてくれたり、大学進学の折には、自分が勉強したい学科に進め、と、好きな機械工学の道に進ませてくれ、自由気ままに育ててくれた父親に感謝しています。
卒業論文のテーマに歯車の強度解析を課せられましたが、中学時代、姉の英文タイプライターをおもちゃにして遊んでいたことが幸いして、ゼミのクラスの中で、タイピングの速度が早かったので、コンピュータのデータ入力役に抜擢されたのが私がコンピュータに関わったきっかけでした。
当時我が国は大型コンピュータの全盛期で、ゼミの友人がたまたまアメリカへ短期留学して帰国した時、アップル社のパソコン(当時は、本体がキーボードと一体型で、CRTは家庭のテレビを利用、記憶装置はテープレコーダーを利用していた)を税関で「タイプライターです」と言って持ち帰ってきました。インベーダーゲームのはしりのころで、それを使って、よく友人とゲームをしたものです。その後、日本にもシャープのMZ、NECのPC6000シリーズが出だし、小遣いをはたいてNECのPC8001を日本橋に行って購入できたときの喜びは未だ鮮やかに残っています。
当初はゲームばかりしていたのですが、例月月末近くなると、母親が従業員さんの給料計算をそろばんをはじいて、四苦八苦している姿をみて、パソコンを利用して親孝行してみようと思い立ち、母親に計算の仕組みを逐一聞きながらBASICでプログラミングを完成させたのが、実用プログラム作成の最初でした。
爾来30年、コンピュータとの付き合いが功を奏し、最近では、インターネットを利用した色々な情報処理のシステムを新商品として取り扱わせて頂くようになったことに感慨を覚えております。
変転いちじるしい社会情勢のなか、未熟ではありますが、小社90余年の歴史の中で、様々な関わりのある方々に支えられていることを忘れず、「職業=印刷=を通じて、分相応の奉仕で社会の恩恵に応えたい」を念頭に、お客様の求めておられる商品を適時適切にお届け出来るよう一層精進を重ねる所存でございます。
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